朝日新聞 2005.6.5(日)書評欄へリンク
先日、アメリカ下院が、難病治療に役立つといわれる胚(はい)性幹細胞(ES細胞)の研究規制を緩和する法案を賛成多数で可決した。ブッシュ大統領の科学政策を批判する科学者のロビー活動が奏功したわけだが、ブッシュは「受精卵を破壊する研究に税金を使ってはならない」として、拒否権を発動する構えを見せている。
これを、中絶反対を主張するキリスト教右派を支持層とするブッシュの政治的アピールとみなすのは、表層をなぞるだけだろう。アメリカの政策判断のベースにある価値体系は堅牢(けんろう)だ。本書を前にして、それを思い知らされている。
著者は、世界初の生命倫理学研究所「ヘイスティングス・センター」の創立メンバー。二〇〇一年、ブッシュが設置した大統領生命倫理委員会委員長となり、生殖目的ではないクローン研究は容認する方向で動いていた審議を土壇場で逆転させ、四年間の研究停止に導いた。本書はいわば、著者が起草した委員会の報告書『治療を超えて』の思想的背景ともいえるだろう。
「二十一世紀に十六世紀の感覚をもちこもうとしている」との批判があることから原理主義的な言説を想像するが、そうではない。
体外受精や臓器移植、クローン、遺伝子操作、安楽死などが技術的に可能な時代に人間が何を失うかを問い、深い考察を加えていく。
瞠目(どうもく)するのは、最大の危険は、個々の自己認識や幸福に対する考え方から生まれるとの指摘だ。その核心に、豊かな生活を保障してきた科学技術中心のリベラル民主主義がある。
たとえば、権利の肥大化。きれいな空気を吸う権利から裸で踊る権利、簡単に死なない権利を獲得したはいいが、揚げ句の「死ぬ権利」。このパラドクスを突く筆先はあざやかだ。
リベラル民主主義には問題を解決に導く手段も示されていると説きつつ、畏怖(いふ)や畏敬の念、道徳観念をはぐくんできた家庭、教育、宗教、政治に注意を向けよ、とも。「日々の積み重ねが精神の奥底の洞察力を育て、かけがえのない心の習慣となって根づいていくのだ」
四十年前、医学の発達が人間性の根幹にある「尊厳」を脅かすことを懸念する人々が生み出した生命倫理学が、いまや公共政策の手続き論に終始し、問題を解決するどころかいたずらに議論を混乱させているという批判はそのまま、日本の現状にもあてはまるだろう。
あくまでも本書は、西洋哲学やキリスト教を土台に論理が構築されている。技術が容易に国境を越える今、文化的多様性を認めた上でなお共有できる価値を探ろうとする視点がないのは気になるところだ。ただ、それがアメリカの強固さであり、現在の日本がもっとも欠く、価値体系の一貫性というものかもしれない。
異論はあろう。だが、こうした人物が国の生命倫理政策を担い、生命倫理が政治選択の争点になるという事実には、羨望(せんぼう)さえ覚えるのだ。
日本でかつて、総理大臣が、倫理委員会の長が、自身の生命観を説得力ある言葉で表明したことがあっただろうか。
|